小倉ヒラク: 『デザイナーのフリをした学者』 になることを目標に、アジアとヨーロッパに長期滞在後デザイン活動を始める。生活にまつわる様々なトピックスを編纂する小倉工作室主宰。
by ogura_hiraku
地営業カンパニー、++(たすたす)スタート!!

こんばんは、ヒラクです。
さて、本日僕は20代最後の誕生日を迎え、法人を設立することにしました。
個人のデザイン事務所から、リサーチ→デザイン・編集→プロジェクトのプロデュースまでを手がける総合デザインファームにステップアップです。
目的は、常々お話ししている「地営業」的世界を作るため。
名前も、僕の個人事務所の「小倉工作室」は、アトリエの名前に留め、会社名は「合同会社++(たすたすと呼びます)」に変わり、++セッションで出会った共同代表の安田さんと共に、僕たちの理想とする世界を作っていくために、さらに愉快に、朗らかに、ユーモラスに邁進していきたいと思います。
詳しい事業内容は、近日会社案内のパンフレットとWEBでお伝えします。
もちろん今までの仕事もより高いクオリティで継続していきます。
気になるかたは、info@tassetasse.jpまで連絡ください。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
かしこ。
三鷹のまちづくりシンポジウムに参加します。
ご無沙汰してます、ヒラクです。
「更新するぞ!」と言いながらまたもやサボってしまった4〜5月。忙しい!というのは言い訳にならないので、頑張って行きたいところです。
さてさて。書きたいことは山ほどあるのですが、今夜は告知をば。
今週土曜の12日の午後から、工作室の拠点である三鷹のまちづくりシンポジウムに講演者として呼ばれました。
今までに地域計画のこと、地元での仕事を振り返りつつ、当日は超重要なことを発表しようと企んでおります。
詳細はまた。
いわゆる市民活動やコミュニティづくりの先達たちのなかで、やや場違い気味のヒラクですが、面白い出し物ができればなと思っております。
人・街・つながる交流型まち活シンポジウム@三鷹ネットワーク大学
(ビジネスパーソンのためのみたか入門)
2012年5月12日13:30〜18:30
三鷹ネットワーク大学 東京都三鷹市下連雀3-24-3 三鷹駅前協同ビル3階
三鷹やその周辺の街に住んでいて、昼間都内の企業で働く20代~50代くらいのビジネスパーソンで、地域に関心はあるけどちょっと係り方がよくわからないという方向けのオリエンテーション的なシンポジウムです。堅苦しくならずカジュアルでオープンな雰囲気の場としたいと思いますので、お気軽にご参加ください。
(概要)
1.防災、三鷹の農業、市民活動、地域での起業など身近なテーマ
での地元キーマンのプレゼンテーション型のセッション
2.参加者の自由な意見交換と交流ができるようなワークショップ を開催します。
(途中、市長のカジュアルなあいさつも予定されています)
3.シンポジウム後はビール片手にライトな交流会(ワンコインパ ブ)を予定してます。
詳細は、
http://www.facebook.com/events/357224974312656/
をご覧ください!
それではお休みなさい〜。
「更新するぞ!」と言いながらまたもやサボってしまった4〜5月。忙しい!というのは言い訳にならないので、頑張って行きたいところです。
さてさて。書きたいことは山ほどあるのですが、今夜は告知をば。
今週土曜の12日の午後から、工作室の拠点である三鷹のまちづくりシンポジウムに講演者として呼ばれました。
今までに地域計画のこと、地元での仕事を振り返りつつ、当日は超重要なことを発表しようと企んでおります。
詳細はまた。
いわゆる市民活動やコミュニティづくりの先達たちのなかで、やや場違い気味のヒラクですが、面白い出し物ができればなと思っております。
人・街・つながる交流型まち活シンポジウム@三鷹ネットワーク大学
(ビジネスパーソンのためのみたか入門)
2012年5月12日13:30〜18:30
三鷹ネットワーク大学 東京都三鷹市下連雀3-24-3 三鷹駅前協同ビル3階
三鷹やその周辺の街に住んでいて、昼間都内の企業で働く20代~50代くらいのビジネスパーソンで、地域に関心はあるけどちょっと係り方がよくわからないという方向けのオリエンテーション的なシンポジウムです。堅苦しくならずカジュアルでオープンな雰囲気の場としたいと思いますので、お気軽にご参加ください。
(概要)
1.防災、三鷹の農業、市民活動、地域での起業など身近なテーマ
での地元キーマンのプレゼンテーション型のセッション
2.参加者の自由な意見交換と交流ができるようなワークショップ を開催します。
(途中、市長のカジュアルなあいさつも予定されています)
3.シンポジウム後はビール片手にライトな交流会(ワンコインパ ブ)を予定してます。
詳細は、
http://www.facebook.com/events/357224974312656/
をご覧ください!
それではお休みなさい〜。
『借りを返す』という生きかた
こんばんは、ヒラクです。
突然やってきた春の陽気に、さっそく体調を崩してしまいました。
なので、毎日仕事は底々に切り上げ、物思いにふけっています。
さて、今夜は長らく考えてきた「そもそも論」をお話したいと思います。
---------------------------------☆---------------------------------
「借りを返す」。
これが、僕たちの世代(20代~30代前半)の生き方です。何の借りを返すのかというと、「僕たちの親と祖父母の世代」の借りたものです。では、親と祖父母の世代はどんな生き方だったかというと、「お金以外のものを担保にして、お金を借りる」という生き方だったと僕は考えています。
現在超シビアになっている、生態系だったり、共同体だったり、景観だったりの問題があります。具体的には、化学肥料を投入しないと成り立たない瀕死の畑だったり、埋め難いギャップでコミュニケーション不能になった世代間断絶だったり、日本中の国道沿いに立ち並ぶ回転寿し屋さんやサラ金やドラッグストアの巨大チェーン店からなる景観だったり。ヒラクはこれを「借金のカタ」と定義します。
「モノを増やす=経済的に豊かになる」という融資を受けたために、こういう現象が生まれました。
僕はあまり世代を批判するのは好きではないのですが、と断りを入れた上で。
親や祖父母の世代は、モノやお金の、定量化しやすい豊かさを手に入れるために、定量化できない豊かさを担保にして「借金をした」と思うのです。
で、どうなったか。確かにお金(=GDP)とモノはものすご~く豊かになりました。世界でも指折りです。
ところが、そのために支払った犠牲は思いのほか大きかったのでした。このまま今の生産→消費サイクルを続けると生態系と人のメンタルコンディションは破局を迎えてしまうのです。しかも、お年寄りが増え若者が減る現状を踏まえれば、生産しても消費する人がいなくなるわけですから、経済的にもこのサイクルは成り立ちません。
消費人口が増える→モノを増やす→経済規模が大きくなる→大国になる
のプロセスのなかで発生した諸々の弊害を解決する=借金を返すことが、この世代の最大の課題になります。
もちろんそうでない道もあります。モバイルゲームのようなIT産業の中のニッチ領域だったり、情報インフラだったりは借金ゼロの新しい産業と言えるでしょう。自分たちで歴史を作っていける領域はとても魅力的です。が、「問題解決」を信条とする僕としては、この「借金を返す」という作業が本質的に思えるのです。経済成長に背景で損なわれた生態系や景観や地場産業を再生しつつ、高齢化で減っていく労働力やクリエイティビティを補いつつ、ガッチリ固定された既得権益をゆるやかに解体しつつ、アジアを中心とした海外の動きも横目で見つつ、既存の産業のイノベーションを行っていく。
こういう作業が必要になってくるのだなと、思います。
人生は、自分の生きている時間で完結するわけはなく。僕の親の、そのまた親の、そもまた先祖の…という風に川に流れのように連鎖しているものです。だから、常に全てをゼロベースで考えられるわけではない。常に前の世代の借りを何かしら返していくのが、『歴史を生きること』だと思うんですね。
でも、僕は「前の世代」に対してこう言いたい。
この「借り」はあまりのもひどすぎます。ひどいとは思うけれども、僕の世代できっちりと返しましょう。 なぜなら、僕の「後の世代」に対してこの不条理さを味合わせたくないからです。
英国人のマイケル・ファラデーが、力学的エネルギーを電気に変える能力を備えた人類最初の発電機を発明したのは、わずか173年前のことだ。合衆国で最初の、今では空井戸になってしまった油田は、ペンシルバニア州タイタスビルで、エドウィン・L・ドレイクによって発見されたが、それも145年前の話。ドイツ人のカール・ベンツは、人類初の内燃機関駆動の乗り物を開発したが、それもわずか119年前の出来事なのだ。
アメリカ人のライト兄弟は、周知のとおり、人類初の飛行機を発明して飛んだ。101年前のことである。飛行機にはガソリンが必要だった。そろそろあの魅惑的などんちゃん騒ぎの話をしたくなったでしょう?
残念でした。
化石燃料は、あまりにも簡単に燃えてしまう!そう、そしてブッシュとケリーが遊説しているときも、我々は残り少ない燃料のひと吹き、一滴、一塊に次々と点火しているわけだ。全ての灯りは消えようとしている。電気もやがてなくなる。あらゆる形態の移動手段は停止し、地球はやがて骸骨と骨、動かなくなった機械で覆われることになる。
もはや誰も抗うことはできない。ゲームに加わるには遅すぎる。宴を台無しにしてはいけないが、真実に目を向けよう:我々は、空気や水も含めて、まるで明日などないかのように地球の資源を無駄遣いしてきたので、今では本当に明日というものを失いつつある。
さて、ダンスパーティーはもうお終い。でも、お楽しみはこれからなのだ。
<カート・ヴォネガットの2004年のインタビューより>
突然やってきた春の陽気に、さっそく体調を崩してしまいました。
なので、毎日仕事は底々に切り上げ、物思いにふけっています。
さて、今夜は長らく考えてきた「そもそも論」をお話したいと思います。
---------------------------------☆---------------------------------
「借りを返す」。
これが、僕たちの世代(20代~30代前半)の生き方です。何の借りを返すのかというと、「僕たちの親と祖父母の世代」の借りたものです。では、親と祖父母の世代はどんな生き方だったかというと、「お金以外のものを担保にして、お金を借りる」という生き方だったと僕は考えています。
現在超シビアになっている、生態系だったり、共同体だったり、景観だったりの問題があります。具体的には、化学肥料を投入しないと成り立たない瀕死の畑だったり、埋め難いギャップでコミュニケーション不能になった世代間断絶だったり、日本中の国道沿いに立ち並ぶ回転寿し屋さんやサラ金やドラッグストアの巨大チェーン店からなる景観だったり。ヒラクはこれを「借金のカタ」と定義します。
「モノを増やす=経済的に豊かになる」という融資を受けたために、こういう現象が生まれました。
僕はあまり世代を批判するのは好きではないのですが、と断りを入れた上で。
親や祖父母の世代は、モノやお金の、定量化しやすい豊かさを手に入れるために、定量化できない豊かさを担保にして「借金をした」と思うのです。
で、どうなったか。確かにお金(=GDP)とモノはものすご~く豊かになりました。世界でも指折りです。
ところが、そのために支払った犠牲は思いのほか大きかったのでした。このまま今の生産→消費サイクルを続けると生態系と人のメンタルコンディションは破局を迎えてしまうのです。しかも、お年寄りが増え若者が減る現状を踏まえれば、生産しても消費する人がいなくなるわけですから、経済的にもこのサイクルは成り立ちません。
消費人口が増える→モノを増やす→経済規模が大きくなる→大国になる
のプロセスのなかで発生した諸々の弊害を解決する=借金を返すことが、この世代の最大の課題になります。
もちろんそうでない道もあります。モバイルゲームのようなIT産業の中のニッチ領域だったり、情報インフラだったりは借金ゼロの新しい産業と言えるでしょう。自分たちで歴史を作っていける領域はとても魅力的です。が、「問題解決」を信条とする僕としては、この「借金を返す」という作業が本質的に思えるのです。経済成長に背景で損なわれた生態系や景観や地場産業を再生しつつ、高齢化で減っていく労働力やクリエイティビティを補いつつ、ガッチリ固定された既得権益をゆるやかに解体しつつ、アジアを中心とした海外の動きも横目で見つつ、既存の産業のイノベーションを行っていく。
こういう作業が必要になってくるのだなと、思います。
人生は、自分の生きている時間で完結するわけはなく。僕の親の、そのまた親の、そもまた先祖の…という風に川に流れのように連鎖しているものです。だから、常に全てをゼロベースで考えられるわけではない。常に前の世代の借りを何かしら返していくのが、『歴史を生きること』だと思うんですね。
でも、僕は「前の世代」に対してこう言いたい。
この「借り」はあまりのもひどすぎます。ひどいとは思うけれども、僕の世代できっちりと返しましょう。 なぜなら、僕の「後の世代」に対してこの不条理さを味合わせたくないからです。
英国人のマイケル・ファラデーが、力学的エネルギーを電気に変える能力を備えた人類最初の発電機を発明したのは、わずか173年前のことだ。合衆国で最初の、今では空井戸になってしまった油田は、ペンシルバニア州タイタスビルで、エドウィン・L・ドレイクによって発見されたが、それも145年前の話。ドイツ人のカール・ベンツは、人類初の内燃機関駆動の乗り物を開発したが、それもわずか119年前の出来事なのだ。
アメリカ人のライト兄弟は、周知のとおり、人類初の飛行機を発明して飛んだ。101年前のことである。飛行機にはガソリンが必要だった。そろそろあの魅惑的などんちゃん騒ぎの話をしたくなったでしょう?
残念でした。
化石燃料は、あまりにも簡単に燃えてしまう!そう、そしてブッシュとケリーが遊説しているときも、我々は残り少ない燃料のひと吹き、一滴、一塊に次々と点火しているわけだ。全ての灯りは消えようとしている。電気もやがてなくなる。あらゆる形態の移動手段は停止し、地球はやがて骸骨と骨、動かなくなった機械で覆われることになる。
もはや誰も抗うことはできない。ゲームに加わるには遅すぎる。宴を台無しにしてはいけないが、真実に目を向けよう:我々は、空気や水も含めて、まるで明日などないかのように地球の資源を無駄遣いしてきたので、今では本当に明日というものを失いつつある。
さて、ダンスパーティーはもうお終い。でも、お楽しみはこれからなのだ。
<カート・ヴォネガットの2004年のインタビューより>
記憶の取っ手
年度末のドタバタ、今日も工作室で鋭意工作中のヒラクです。
さてさて。
僕は、絵や映像、ことばなどを使いながら情報の「イメージ」をつくる、ということを生業をしているのですが、これって要は「記憶の取っ手をつける」という技術なのだなあと最近つくづく思います。
情報が入った箱を、ひょいと持ち運べるような素敵な取っ手。そんなものをいつもつくろうと四苦八苦しているのです。
具体的に説明すると、こんな感じです。
ここにおいしいお米があります。これが情報の元素です。で、次にこのおいしいお米をみんなに食べてもらうために、1.おいしいお米です。2.完全有機無農薬です。3.イケてる農家さんがつくってます…と、情報を交通整理して情報の「ちょうどよい箱」をつくる。
ほとんどの場合、ここでだいたい「これでよし」としてしまうんですが、いくら素敵な箱であっても、もしそれがただの箱であれば、持ち運びしにくい(段ボール箱なんかを考えてみてください。底から丸ごと抱えたりしてしんどいですよね)。
で、ここから先のプロセス「取っ手をつける」がとっても大事になってくるわけです。
しかし。「箱にしまう」は比較的ノウハウ化しやすい技術なのですが、「取っ手をつける」のはノウハウがなく、定石もなく、王道も邪道もない、というか全てが邪道という、なんともいいようが無い技術なのです。
▼素敵なネーミング
▼殺し文句のキャッチコピー
▼思わず振り向く斬新なイメージ
▼「なぜ?」と驚く不可思議なシチュエーション
▼頭のなかで無限リフレインする音や声
…わかりやすくいうとこれらが「取っ手をつける」作業にあたります。
一見矛盾しているようですが、きれに整理された箱には「!」や「?」でできた取っ手がくっつくのです。
こいつがなかなか難しいんですねえ。
さて、これを「どうつくるか」は、僕としても必殺技はありませんし、恐らく先人達が偉大な業績を残しているのでそれを参照して頂くとして。
僕は実はこの不可思議だったり毒があったりする「取っ手」がキーになってくる現象を面白く思うんですね。
問題を抱える組織や自治体の話を聞くと、たいがい「取っ手がほしい」って言うんですね。自分たちのイケている部分をアピールできる「!」や「?」が欲しいと。で、この「取っ手」を手に入れるにはリスクがかかってくるんですよ。すなわち、「キレイごとから逸脱する」というリスクが。
色々と良さげなことを語る割には、別に進んで話を聞きたくないなっていう人がいるんですが、それはまさに「取っ手の欠如」状態に他ならないわけです。分析して、整理してわかった「ことわり」を惜しげも無く捨ててもう一度不可思議の海に飛び込んで行くバカさなり勇気なりが問題解決のためのステップなのです、が。時代はなぜかひたすらとっかかりのないツルッとした「キレイごと」を追い求めることに熱心だったりするわけで。
この現象をもう少し追ってみると、こんな感じなのかなと思うのです。
「記憶されること」を第一義とするか、「褒められる(怒られない)こと」を第一義とするのか。
ここに運命の分かれ目があるように思います。
人の認知や注意には矛盾したダイナミズムがあります。ラブ&ピースとか言いながら、海外セレブのしょうもないゴシップを追いかけてしまったり、他のラブ&ピースを口にする人に会うとイラッとしたり。
「そういうのは良くない」とかいって、そのメカニズムを無かったことにしたり克服しようとすると、ますます「キレイごと化」が促進されていってしまうので、まずは自分の矛盾した認知のメカニズムや心の動きを注視してみるといいのかなと最近よく考えたりしています。
たかが取っ手、されど取っ手。そこに運命の分かれ道があると思うのです。
それでは良い週末を。
さてさて。
僕は、絵や映像、ことばなどを使いながら情報の「イメージ」をつくる、ということを生業をしているのですが、これって要は「記憶の取っ手をつける」という技術なのだなあと最近つくづく思います。
情報が入った箱を、ひょいと持ち運べるような素敵な取っ手。そんなものをいつもつくろうと四苦八苦しているのです。
具体的に説明すると、こんな感じです。
ここにおいしいお米があります。これが情報の元素です。で、次にこのおいしいお米をみんなに食べてもらうために、1.おいしいお米です。2.完全有機無農薬です。3.イケてる農家さんがつくってます…と、情報を交通整理して情報の「ちょうどよい箱」をつくる。
ほとんどの場合、ここでだいたい「これでよし」としてしまうんですが、いくら素敵な箱であっても、もしそれがただの箱であれば、持ち運びしにくい(段ボール箱なんかを考えてみてください。底から丸ごと抱えたりしてしんどいですよね)。
で、ここから先のプロセス「取っ手をつける」がとっても大事になってくるわけです。
しかし。「箱にしまう」は比較的ノウハウ化しやすい技術なのですが、「取っ手をつける」のはノウハウがなく、定石もなく、王道も邪道もない、というか全てが邪道という、なんともいいようが無い技術なのです。
▼素敵なネーミング
▼殺し文句のキャッチコピー
▼思わず振り向く斬新なイメージ
▼「なぜ?」と驚く不可思議なシチュエーション
▼頭のなかで無限リフレインする音や声
…わかりやすくいうとこれらが「取っ手をつける」作業にあたります。
一見矛盾しているようですが、きれに整理された箱には「!」や「?」でできた取っ手がくっつくのです。
こいつがなかなか難しいんですねえ。
さて、これを「どうつくるか」は、僕としても必殺技はありませんし、恐らく先人達が偉大な業績を残しているのでそれを参照して頂くとして。
僕は実はこの不可思議だったり毒があったりする「取っ手」がキーになってくる現象を面白く思うんですね。
問題を抱える組織や自治体の話を聞くと、たいがい「取っ手がほしい」って言うんですね。自分たちのイケている部分をアピールできる「!」や「?」が欲しいと。で、この「取っ手」を手に入れるにはリスクがかかってくるんですよ。すなわち、「キレイごとから逸脱する」というリスクが。
色々と良さげなことを語る割には、別に進んで話を聞きたくないなっていう人がいるんですが、それはまさに「取っ手の欠如」状態に他ならないわけです。分析して、整理してわかった「ことわり」を惜しげも無く捨ててもう一度不可思議の海に飛び込んで行くバカさなり勇気なりが問題解決のためのステップなのです、が。時代はなぜかひたすらとっかかりのないツルッとした「キレイごと」を追い求めることに熱心だったりするわけで。
この現象をもう少し追ってみると、こんな感じなのかなと思うのです。
「記憶されること」を第一義とするか、「褒められる(怒られない)こと」を第一義とするのか。
ここに運命の分かれ目があるように思います。
人の認知や注意には矛盾したダイナミズムがあります。ラブ&ピースとか言いながら、海外セレブのしょうもないゴシップを追いかけてしまったり、他のラブ&ピースを口にする人に会うとイラッとしたり。
「そういうのは良くない」とかいって、そのメカニズムを無かったことにしたり克服しようとすると、ますます「キレイごと化」が促進されていってしまうので、まずは自分の矛盾した認知のメカニズムや心の動きを注視してみるといいのかなと最近よく考えたりしています。
たかが取っ手、されど取っ手。そこに運命の分かれ道があると思うのです。
それでは良い週末を。
「大事」は出し惜しみしたい
こんばんは、ヒラクです。
今日は重箱の隅をつつくような話を一つ。
近頃気づいたことなんですけど、「大事なことは〜」ていう枕詞を多用しすぎることって、よくあります。
一分間に三回くらい「大事なのはね」なんて言ったりすると、聞く側からすると「大事じゃないことはあるのか!?」っと突っ込みたくなることもしばしば。
「困ったもんだ」と文句を言う前に、今回はその「大事」の乱発現象を腑分けして見ていきましょう。
まず基本的に、「大事」の機能は「強調」と言えるでしょう。文字でいうと、太字にしたり、アンダーラインを引いたりする感じです。受験の時のノートを思い出してください。強調をすると、当然「ここが大事なんだな」と思うわけです。そうなると、注意深く聞いたり、記憶しようとする。たくさんある要素のなかから、重要度の高いものを選り分けて、優先順位をつけていく。そのしるしが、「強調」であり、「大事なのは〜」発言なわけです。コミュニケーションにメリハリを付けようという工夫なんですね。
ところが、ここに「パブロフの犬」的現象が起きてくる。
「大事」なものを「強調」するはずが、「強調」してあるものは「大事」であるという転倒が起きる可能性が出てくるのです。
目的と手段があべこべになっていってしまうんですね。
「大事なのはね」というと、無条件に聞き手の注意を引きつけることができる。
こういう事を、戦略的に利用しようということになっていくわけです。
さらに厄介なのは、注意深く「大事なのは〜」乱発現象を見ていくと、話し手はたいがいそれをあまり意識していないことに気づきます。
日々のコミュニケーションのなかで「大事なのは〜」を言うと、注意の矢印が向くということに気づき出すと、無意識のうちに「大事なのは〜」を枕詞にするようになってしまうのです。
それが、そこまで大事でないにしても。
これって、困ったら髪を掻きむしったりしてしまうような、コミュニケーションにおける一種のクセみたいなものです。クセになってしまうと、自分では気づかないのです。「大事」がありすぎて相手が混乱してしまっていることに。
こういう現象が、世の中にたくさんあります。で、僕はこれに対して結構危機感を持ったりしているんですね。なぜかというと、「大事なのは〜」の威力に頼っているうちに、だんだん自分のなかで、情報の優先順位を付けていく力が落ちていく可能性があるからなのです。
「情報の優先順位を付ける」ことはつまり、相手に対する「理解の導線をつくる」を意味します。それは、枕詞や形容詞ではなく、あくまで情報の文脈できちんと設計しなければいけないものだと思うのです。
「強調」は実はここ一番の飛び道具であって、普段は出さないようにするのが自分にとっても相手にとっても有益なのかな、と最近感じています。
原稿用紙一枚ぶんくらいのページに、太字や赤字の単語が1つか2つ乗っている。当然のその文字を優先的に見ますよね。では、それがページに10個乗っていたとする。正直多すぎて覚えきれない。そうすると、「強調」することのもともとの意味が失われてしまったりして。
…考える事に手を抜くと、しばしばこういうコミュニケーションになってしまうんだよなあ。気をつけようっと。
今日は重箱の隅をつつくような話を一つ。
近頃気づいたことなんですけど、「大事なことは〜」ていう枕詞を多用しすぎることって、よくあります。
一分間に三回くらい「大事なのはね」なんて言ったりすると、聞く側からすると「大事じゃないことはあるのか!?」っと突っ込みたくなることもしばしば。
「困ったもんだ」と文句を言う前に、今回はその「大事」の乱発現象を腑分けして見ていきましょう。
まず基本的に、「大事」の機能は「強調」と言えるでしょう。文字でいうと、太字にしたり、アンダーラインを引いたりする感じです。受験の時のノートを思い出してください。強調をすると、当然「ここが大事なんだな」と思うわけです。そうなると、注意深く聞いたり、記憶しようとする。たくさんある要素のなかから、重要度の高いものを選り分けて、優先順位をつけていく。そのしるしが、「強調」であり、「大事なのは〜」発言なわけです。コミュニケーションにメリハリを付けようという工夫なんですね。
ところが、ここに「パブロフの犬」的現象が起きてくる。
「大事」なものを「強調」するはずが、「強調」してあるものは「大事」であるという転倒が起きる可能性が出てくるのです。
目的と手段があべこべになっていってしまうんですね。
「大事なのはね」というと、無条件に聞き手の注意を引きつけることができる。
こういう事を、戦略的に利用しようということになっていくわけです。
さらに厄介なのは、注意深く「大事なのは〜」乱発現象を見ていくと、話し手はたいがいそれをあまり意識していないことに気づきます。
日々のコミュニケーションのなかで「大事なのは〜」を言うと、注意の矢印が向くということに気づき出すと、無意識のうちに「大事なのは〜」を枕詞にするようになってしまうのです。
それが、そこまで大事でないにしても。
これって、困ったら髪を掻きむしったりしてしまうような、コミュニケーションにおける一種のクセみたいなものです。クセになってしまうと、自分では気づかないのです。「大事」がありすぎて相手が混乱してしまっていることに。
こういう現象が、世の中にたくさんあります。で、僕はこれに対して結構危機感を持ったりしているんですね。なぜかというと、「大事なのは〜」の威力に頼っているうちに、だんだん自分のなかで、情報の優先順位を付けていく力が落ちていく可能性があるからなのです。
「情報の優先順位を付ける」ことはつまり、相手に対する「理解の導線をつくる」を意味します。それは、枕詞や形容詞ではなく、あくまで情報の文脈できちんと設計しなければいけないものだと思うのです。
「強調」は実はここ一番の飛び道具であって、普段は出さないようにするのが自分にとっても相手にとっても有益なのかな、と最近感じています。
原稿用紙一枚ぶんくらいのページに、太字や赤字の単語が1つか2つ乗っている。当然のその文字を優先的に見ますよね。では、それがページに10個乗っていたとする。正直多すぎて覚えきれない。そうすると、「強調」することのもともとの意味が失われてしまったりして。
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